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その三 判断のメカニズム[照見五蘊皆空]
仏さまが舎利子に
「観音さまがとても素晴らしい智慧を身につけるための修行をしていた時にね……」
と説きはじめる般若心経。次に意味として続くのは「照見五蘊皆空」の句です。
意味と読みくせ
意味としてに傍線を引いたのは、お経というのは意味の区切りと、読み方の区切りが一致しないことが多いからです。

意味からいえば、
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」
(観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時)
「照見五蘊皆空」
(五蘊はみな、空なりと照見して)
「度一切苦厄」
(一切の苦厄を度したもう)
となります。
しかし、読み方は(読みくせといいます)、
[観自在菩薩行深般若波羅蜜多]
[時照見五]——意味から言えば、時は前句につき、五は次句の「蘊」について「五蘊」となります。
[蘊皆空度]——度も次句についてはじめて意味が通じます。
[一切苦厄]

となってしまうのです。これはリズムの問題なので、読誦するときはあまり気にしない方がいいでしょう。
五蘊は空…
さて、内容に入りましょう。般若心経の前半はとても哲学的です。ですから、「いわれてみればそうだけど…私たちの日常の生活の中では、とてもそこまで考えないことばかり……」とため息がでそうになります。
しかし、これがまた結構面白いのです。普段私たちが考えもしないようなことが次々に登場するのです。
[照見五蘊皆空]を例にとってみましょう。読み下すと、
「五蘊はみな、空なりと照見して」
となります。

分かりやすくするために「照見」からみてみましょう。
「照見」とは「分かった」「了解した」ということです。何が分かったかと言えば「五蘊というものが、みんな空なんだ」ということが分かった、というのです。
「空」は「シューニャ」という梵語の訳語です。ものごとは条件によって成り立っているといってもいいでしょう。あなたが「ある」と思っているものは、条件によって成り立っているもので、そのもの固有の実体は「ない」のだということを表しています。
ですから「五蘊皆空」は「五蘊というのは、すべからく条件によって成り立っているのだ」という意味です。
で、残りは「五蘊」です。蘊は「あつまり」のことです。仏教では、私たち五つのものが寄り集まっていると考えます。これを称して「五蘊」といいます。
この五つのものは、後にも出てくる「色」「受」「想」「行」「識」です。
ロウソクがロウソクである理由
あとで別の角度からもふれますが、ここでは皆さんが仏さまにあげるロウソクを例にとりましょう。
般若心経では「ロウソクがあるように思っているけど、ロウソクなんてものはない」といっているのです。
……??ですね。
ではそのカラクリをご説明します。

まず、ロウソクがあります。これは物体、つまり形あるものです。形のことを仏教で「色」といいます。ロウソクの色は白じゃないかと思うでしょうが、それは「行」という言葉になります。
???でしょうが、我慢して読み続けてください。

とりあえず、ロウソクは形があるので「色」という言葉であらわしておきます。しかし、ロウソクがロウソクであるためには、私たちがそれをロウソクと知っているからですよね。
では、私たちがロウソクをロウソクと知ることができるのはどうしてか、を考えてみることにしましょう。
———仏さまにあげられたロウソク(色)があります。それを私たちは目で見ますよね。この「見るということ」が「受」です。まず眼球の網膜でロウソクの形を受けるからです。

つぎに網膜で受けた(受)ロウソクという形(色)は、脳に信号として送られます。この脳に送られることを「想」といいます。だからロウソクの像を脳に思うことを「想像」といいます。しかしこれは、私たちが「こうしよう」と思ってやっていることではなく、目と脳が機械的に勝手にしてくれている作業です。たとえば、赤ちゃんにロウソクを見せても、それがロウソクだとは思いません。ロウソクの形は脳に届いているはずですが、それをロウソクだとは思いません。
それをロウソクだと思うことを「行」といいます。「心の行為」なので「行」です。ですからいろ色は白であると判断するもの「行」なのです。この時点では、ロウソクは単なる物体としてのロウソクです。熱いとか、仏さまにあげるものということは考えません。

色受想行識の最後の「識」は、ロウソクに関して私たちがいろいろと思うことです。
「これはロウソクというものだ」「ふつうは白い」「火をつけて使うもの」「溶けるもの」「停電の時に役立つもの」「仏さまにあげる」「誕生日のケーキに仏壇で使うロウソクを使うと怒られる」などと思うのはすべて「識」です。過去の経験から蓄積された知識から出てくるから「識」です。
条件によってロウソクはロウソクたりえる
ですから、最初から仏さまにあげる火をつけるロウソクがあるわけではないのです。ロウソクという形(色)があり、それを目で見て眼球の奥にある網膜が像を受けて(受)、それが脳に送られます(想)。脳が勝手に認識したロウソクを、ロウソクだと思い(行)、これは仏さまにあげるものだ(識)と分かるのです。

私たちがお仏壇やお寺で見たり、あげたりするロウソクですが、そのロウソクと私たちは、今まで申し上げたような条件がそろってはじめて、物(色)と私の関係ができあがっていることがお分かりいただけたでしょうか。
ここまでが、色と私たちの関係ですが、このように考えると、色だけでなく、受も想も行も識もそれ固有の働きがあるわけではなく、いつでも同じ状態にあるわけではないということになります。その五、六でくわしくふれますが、これが「五蘊皆空」つまり「ものごとのありようは心も含めて、全て条件によって変わるのだ」ということであり、観音さまはそのことが分かった(照見した)というのです。
……だから、どうした?と開き直らないでください。ものごとの真実のありようを、しっかりと見ていく智慧について書かれてあるのが、般若心経なのです。