真言宗豊山派 もっとい不動 密蔵院

ウェブ連載 「…なんだそうだ、般若心経」名取芳彦

はじめて読むひとは、ぜひ「その1」からお読みください

その二 あなただって観音さま[観自在菩薩行深般若波羅蜜多時]

このお経の主人公

挿絵:観自在〜本文262文字という短い般若心経ですが、それでもこのお経は物語り形式になっています。

まず、この話し手は仏さまです。経題に「仏説」とありますからね(お経はいつの時代に書かれようと「お釈迦さまがおっしゃった(仏説)」ではじまることになっているので、暗黙の了解として「仏説」を省略した般若心経もあります)。

挿絵:般若心経 多い漢字ランキングでは、その物語りの主人公はだれかというと、最初に書いてある「カンジーザイボーサー」、つまり「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)」です。観音さま(観世音菩薩(かんぜおんぼさつ))の別名です。

次に聞き役がいます。それが「シャーリーシー」、つまり「舎利子(しゃりし)」という名前のお弟子さんです。

さて、物語りは 「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)深般若波羅蜜多(じんはんにゃはらみった)(ぎょう)じし(とき)」 (観音さまが、とても深い智慧を身につけるための修行をしていた時に…)とはじまります。

皆さんが
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時(カンジーザイボーサーギョージンハンニャーハーラーミータージー)
挿絵:修行中の観世音菩薩と唱えている所です。具体的にどんな修行をしたのかは書いてありません。何といってもエッセンスのお経ですから、あまりこまかいことにはふれていないのです(具体的な修行方法についてはあとがきでふれます)。

二元論から四元論へ

さて、観自在菩薩という仏さまについてふれておきましょう。「観自在」とは「(色々なものを)察することが自在である」ということ。自在という言葉は、何ものにも邪魔されないということです。思い込みや、自分の欲などが入り込まない見方ができるということです。

挿絵:金運、幸運招き猫「お金持ちは幸せで、貧乏は不幸である」と思い込んでいる方はいないでしょうか。その思い込みから「幸せになるためにお金持ちになりたい」と、自分の欲が入り込みます。「幸せになりたい」ということは良い願いです。しかし幸せになるための手段である「お金持ちになる」ことだけで、「幸せになる」という願いをかなえようとすると、お金にふりまわされしまうことになりかねません。つまり幸せになるという本当の目標がぼやけてしまって、お金持ちになる!という手段が目標になってしまうのです。

たしかにお金持ちで幸せな人もいるでしょうが、お金持ちで不幸な人もいます。

逆に貧乏で不幸な人もいますが、貧乏で幸せな人もいます。

挿絵:金運、幸運招き猫ですから「お金持ちは幸せで、貧乏は不幸である」は、かたよった見方ということになります。この、

という二つしかない見方を二元論といいます。ともすると私たちは二元論ばかりでものごとを見ようとしていまいます。しかし、これに、

という見方が加わると、四つの見方になるので四元論になります。こういう見方を「観察すること自在」、つまり「観自在」というのでしょう。いい方をかえると、柔軟(じゅうなん)な発想ができるともいえるでしょう。

観音さまは、とにかく思考が柔軟で、何ものにもとらわれない、自由自在な見方ができる仏さまです。別名の「観世音(かんぜおん)」は「世間(衆生(しゅじょう))の音(声)を観察する」ということです。すごい仏さまがいたものです。

しかし、仏教は、はるか彼方(かなた)の仏さまを仰ぎ見て、おすがりするだけの教えではありません。自分が仏になりましょうという教えでもあります。

あなただって観音さま

自分が仏になる…自分が観音さまになる…そんなことができるのか?とお思いですか。それがちゃんとできるのですよ。
こんな話しがあります。

挿絵:安居院の椿千利休(せんのりきゅう)の孫にあたる千宗旦(そうたん)という人がいました。江戸時代前期のことです。この宗旦さんには懇意(こんい)にしているお坊さんがいました。京都の安居院(あぐいん)というお寺の和尚(おしょう)さんです。

さて、この安居院には、めったに花をつけないことで有名な椿がありました。この椿がある時、めずらしく花をつけたのです。

そこで和尚さんは、その一枝を折って、小僧さんを呼んでいいました。
「めったに咲かない椿が咲いたから、ご苦労だが、宗旦さんのところへ持っていって、茶室に活けてもらいなさい」

挿絵:安居院の椿だいじな椿をもって宗旦さんのところへ急いだ小僧さんですが、運悪く途中で転んでしまって、花がとれてしまいました。

「どっ、どうしよう……『届けました』と知らん顔をしてしまおうか……でも仲良しのお二人のことだから、すぐ本当のことが分かってしまうだろう。それに嘘をつくことはいけないことだから…」と、小僧さんは宗旦さんのところへ行って、ことの顛末(てんまつ)を正直に話しました。ばらばらになった椿の花と枝を受け取った宗旦さんは、やさしく小僧さんにいいました。
「そうですか。それは残念なことをしました。でもあなたにおけが(怪我)がなくて、ようございました…」

少し間をおいて、何か思いついたように宗旦さんはつづけました。
「そうだ、今日はとてもいい日だから、ご住職にお茶を一服さしあげましょう。小僧さん、ご苦労さまですが、寺へかえったらそう伝えてください」
小僧さんはビックリしました。和尚さんを呼んでくれば、自分が椿を台無しにしてしまったことがわかってしまうからです。

でも、宗旦さんのいうことなので、仕方がありません。寺にもどっていいました。
「あのぉ、宗旦さんがお茶を一服さしあげたいから、これから来てほしいとのことでございます…」

和尚さん、ニコニコして、宗旦さんの茶室へ出かけました。
宗旦さんは、やってきた和尚さんを迎えました。
「さあ、どうぞお上がりください」

挿絵:茶室の椿茶室に入ってビックリしたのは和尚さんです。先ほど小僧に持たせた椿……。たしかに床の間に活けてあるのですが、それが枝だけなのです。花は床に落ちてしまっています。
ウームと考えた和尚さん。やがて目をキラリと輝かせて、
「なるほど、じつにみごとですね」
といいました。

それを聞いた宗旦さんは、にっこり微笑(ほほえ)んで、
「ありがとう存じます」
(こた)えました。

()ると()

この話のいわんとするのは、
「その床の間にはポトリというが、みごとに活けてあった」ということなのです。

挿絵:ポトリ椿の花が落ちる音をポトリと形容します。

私たちは、音は聞くものと思っていますが、この二人のように、心のアンテナをじょうずに張ると、音だって見ることができるのです。いや、こういう時には「見る」ではなく「()る」と書くべきでしょう。

「音を観る」――これが観音さまです。だとすれば、私たちも観音さまになることができるはずです。

心のアンテナ

挿絵:心のアンテナ自然の中や、多くの人々が祈りをささげてきたお寺の境内などは、私たちが心のアンテナを張りやすい環境がととのっています。
心を澄ませると、アンテナがたくさん張れるようになります。そして、そのアンテナは色々な方向に向けられるようになります。
高感度のアンテナを、さまざまな方向に向けて張っているのが観音さまです。
その観音さまが主人公のお経――それが、般若心経です。

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