今日の檀家さんの法事は三回忌。仏の弟子になった亡き人に教えを説いてくれるのは阿弥陀如来である。生きるのに、食べていくのに精一杯の娑婆では、充分な仏道修行もできない。ならばせめて、次の生では阿弥陀さまのいる浄土へ往(い)って生まれ(これが往生)、ゆっくり修行をしたいと素朴に願うのが阿弥陀信仰である。
私は自分がまとっている飾りを無くすことが、ごく楽な世界(極楽浄土)ではないかというお話をした。自分が着ている物(自分を飾っている物)を捨てて、お風呂に入った時に「極楽、極楽」とつい言ってしまうのは、そういうことだろうと思う。話が終わった後に参列者から「大往生というのはどういうこと?」質問があった。
往生は上記のごとく元来は「極楽浄土に生まれ変わること」だ。それは同時にこの世での死を意味する。ここが一回目の仏教語の俗化である。ここから、さらに第二段階の俗化が起こって「(死んで)どうすることもできない」という意味が生まれて「渋滞に巻きこまれて往生した」なーんて使われるようになる。ちなみに「大往生」は、高齢で多臓器不全などの自然死の時に言われる言葉である。
しかし、往生はもともと、今(現世)はともかく、未来(来世)への希望が元になっている言葉だ。それはまた、素朴で、それでいて素敵な私たちの希望の話でもある。さて、未来である明日にどんな希望を託そうか……。