江戸で大富豪になった紀伊国屋文左衛門、築地の本願寺、若者に人気の吉祥寺の街……。これらに共通の出来事が江戸時代にあった。時に明暦三(1657)年正月十八日のことである。
これから記そうとすることは、この事件より二年前の正月におこった小さ出来事からスタートする。
麻布の市兵衛町(現在の六本木ヒルズとアークヒルズの間あたり)に質屋と両替をしていた遠州屋彦右衛門という者がいた。従業員二十人というから大きな商人(あきんど)だった。夫婦の間に当年とって十七歳になるおさめという娘がある。さて、明暦元年正月とて、彦右衛門は菩提寺の本郷丸山の妙本寺へ家族、奉公人と共にお参りにでかけた。
お参りがすむと、おさめが「浅草の観音さまにもお参りしたい」と言う。
本郷から湯島天神裏の切り通しをぬけ、不忍池にでて五条天神の鳥居(現上野公園内)までくると、おさめの足がピタリと止まってしまった。見ると目をつぶっている。乳母が「どうしました?」とポンと肩をたたくと、おさめは我にかえったように目を開けて気まり悪そうに歩きだした。
家に帰るとおさめは母親に「うねり織(畑の畝のようにした織)絹(ぎぬ)に、荒磯と菊の模様、桔梗の縫い紋の振袖が欲しい」と懇願する。桔梗は彦右衛門の家紋ではないのだが、母親は仕方なく呉服屋に注文する。一週間ほどして品物が届くとおさめは大喜びしたのも束の間、どうしたわけかブラブラ病(やまい)になってしまった(ぶらぶら病:特にどこが悪いというわけではないが、何となく調子の悪い状態が長引く病気)。
寝込んでいるおさめの布団を乳母がめくってみると、枕に目鼻を書いて、例の振袖を着せている……。乳母がわけを尋ねると、五条天神の鳥居の前ですれ違った若衆の姿が忘れられず、男が来ていた振袖を拵えてもらって、それをいつも側に置いて苦しい胸を晴らしているのだと言う(当時袖の短めの振袖は、結婚前の男女共に着用していた)。(写真は荒磯に魚模様の生地)
家の者や奉公人に聞いても、その若衆が誰なのかわからない。そうするうちに、おさめの具合ますます悪くなり、ついに二月十六日に、歳十七歳にして帰らぬ冥途黄泉の客となってしまった。両親の悲しみいかばかり……。葬儀は因縁の振袖を柩の上にかけて十八日に、妙本寺で営まれた。これが物語りの始まりである。続きは次回……。