今日のご詠歌のお稽古の中の「不動明王和讃」の一番の歌詞に♪「如来の命、生きる身の」♪が出てくる。
20年ご詠歌を共にやっている方々だが、おそらくこの意味をしっかりつかんでいる方はあまりいないだろうと、時間が押しているにも関わらずお話した。
如来とは、[(真)如からやって来た]という意味である。
私たちの命は「真如」、つまり真実だし、どこにも嘘がない。だから「真如」の具現化したものに他ならない。だから「如来」の「命」である。
元々は、如来(仏)になったお釈迦さまは普通の人である。普通の人が一生懸命修行をしたから如来になれたとも言えるが、後の時代の人たちはそうとばかりは考えなかった。
寝ないと死んでしまう、食べればトイレに行く、眠くなるとあくびがでる、体温が35度くらいで、冬は寒いと感じ、夏は熱いと感じる、赤ん坊の鳴き声も聞いただろう、年寄りも見ただろう、病人も見ただろう、夜空の星々も仰ぎみたことだろう・・・・そういうことすべてが、お釈迦さまが悟りを得るきっかけになっているはずだと考えた。つまり私たちの周囲の自然も、私たちの体が持っている力も、すべてが「普通の人をさとらせる力」=「仏」と考えた。
それは現在の私たちも同じ条件下にいる(生きている。よって、私たちも悟れる可能性があるのだ)。
ここが分からないと「如来の命を生きている」「仏の命を生きている」がわからなくなる。
何か宗教くさい「ナニモノかから使命を与えられた自分」などというものではないのだ。
私たちの周囲からも、私たち自身の中からも「悟らせる力」が溢れ出ているということだ。だから、ツマラヌ生き方などして、かたじけない命を使わないのは勿体ないと思う。