何をどう考えていたのかはわからぬ。とにかく、ついでいたお茶がこぼれんばかりになっていた。
問題は、これをどう飲むか、である。
熱いので、他の指に被害が及ぶことのないよう、右手の親指と人指し指でつまんだ。
そのまま口へ運ぼうとしてもUFOキャッチャーのようになめらかな動きはできぬ。熱いからである。わははは。
いきおい、口を湯飲みに近づける。しつこいが、熱いから飲めないので、すすることになる。
もはや、これはお茶の飲み方に非ず、熱燗の飲み方である。どははは。オチャラケた話である。
しかし、お茶を熱燗のように飲むことがあるのだから、他にも、異なったことで酷似したやり方をすることがあるだろう。
今晩の経験が、これからの人生の中で「そして、何か似たもの」探しへとつながるに違いない。
そして、それがまた、仏教の極意と人生の極意と何気ないしぐさの酷似点となって、私の中でつながることになるのだろうと思う。仏教的な生き方とはそういうものだ。