
「病(やまい)は気からって言うけどな、気は病からってこともあるんだぞ」と、父が晩年言っていた。
なるほどと思って以来、軽はずみに「病は気からって言うじゃないですか」と励ますようなことは言わなくなった。
昨日フラリとお寺の前を通られて、掲示板の
「希望はすこぶる嘘つきだが、少なくとも人生の終わりまで楽しい小道を歩かせてくれる ロシュコフ」という言葉の「希望」について、たまたま境内にいた家内に尋ねた人がいた。
家内には対応しきれない問題を抱えている方らしく、その後私が対応をした。
医者ではないから、迂闊な判断はできないが、お話を聞きながら「自意識過剰」という言葉と「被害妄想」という言葉が脳裏をのぎった。
それでも、普通の人には見えないものも、聞こえないことも、ご本人には、現実である。
解説の糸口をさぐってみて、とりあえず、本堂でお線香一本燃え尽きるまで座っていてもらった。
そして、その後にお話を伺って、今私にできることは、御祓いをすることくらいだと思った。
帰りに、21日間の簡易施餓鬼をやるようにお勧めした。施餓鬼は自分以外のモノたちへのもてなしの行でもある。膨らみ続ける自意識が、それでいくらか膨張をストップしてくれればいいと思う。
--ということで、今日の「やまいはきから」というタイトルをひらがなにしたのには理由がある。
さっき、私の後ろでパソコンを操作していた次男が
「小さい頃は、病は木からって思っていたんだ」と言った。
充分あり得る話だ。「き」を「気」と類推できるようになるのは中学生くらいになってからだろう--そう思っていたら、続けてこんなことをボソッと言った。
「でもさ、山芋は木にならないよね、地面の中だもん」と言った。
愉快な展開である。わははは。
