
私は、悟りを目指して生きていこうとする点では、仏教徒だ(悟りを求めてわき目もふらずに日々邁進するというわけではなく、のんびり行こうと思っているが)。
宇宙を支えている、そしてこれからも支えるであろう力(自然が持つ力といっても同じでである)を、自分の体の中に感じ、弱っていればそれをパワーアップさせる方法も、一般の方々よりはずっと早い方法を身につけている---そういう点で、真言宗の坊さんである。
一方で、「耐え忍ぶ場所」という意味のサハー(音訳されて娑婆となる)に生きる、私を含めた人々が、人生の中でいろいろなことで悩み、苦しんでいる状況にあることも頭では分かっている。
仏教には、それらを見事に結びつけ、綺麗に整理し、問題を解決する道筋があるはずだ(というか、まあほとんど信じている。ぐははは。そうでなければ八万四千も経典があるはずはないし、二千五百年も続いているはずはないからである)。
ありがたいことに、私をして、強制的に動かしめている霊的な何モノか(神とか守護霊とか、--そのナニモノかにいいことをすればご褒美をくれて、ナニモノかのご都合とおりにしないと罰を与えられるような、ひどく身勝手なナニモノかという意味である)を信じなくても、ぜんぜん普通に生きていける。
「何かを盲目的に信じなくても、ぜんぜん普通に生きていける」--その術(すべ)が仏教にあると思う。
ただ、余りに膨大な教えがあるから、不勉強で修行不足の私は、その道筋が綺麗に見えてこないで三十年も坊さんをやっている。
ところが、ここ三年ほど、年に数回、「おっ、道筋が見えそうだぞ」と直感する瞬間がある。たいだいは、その場だけで二分もするとそれを忘れてしまう。見えかかっていた道筋が、すーっと消えていく。
面白いなあと思う。一昨日も、犬の散歩をしながら、現代でこそ綺麗に見えるべき道筋がチラリと見えたような気がした。でも散歩から帰ってきたら、忘れていた。ぎゃははは。
「どうして人を殺(あや)めてはいけないのですか」
「どうして自分のことを優先して生きていけないのですか」
「お金儲けは悪いことですか」
「お金がなけれは何もできないではないですか」
--そんな難題を、飴とムチを使うナニモノか頼らずとも、自分で綺麗に解決して、人として素敵に生きていく、より具体的な道筋が見えたら、ご報告申し上げます。
