
朝閻魔さまにご挨拶に行ったら(と言っても、門を出て二歩だが)、どなたがお上げになられたか、夏みかんのお供え---粋なことをおやりになる。
たまたま今日、
チェーホフの「たとえ信仰を持っていなくても、祈るというのは、何となく気の休まるものだ」という言葉を再発見したところである。
新年の七草がゆをいただいて(と言っても、おかずに、お正月の名残りの酢だこと、娘がバイト先から持ち帰った牛すじの煮込みも食べたから、決して消化には良くないのだけれど)、これより「読経の庭」で、新年の祈りのこもったお経をみんなであげる。
参加者の多くの方が年金世代だから、「より良い年になりますように」の中に、お金の損得といったものはない。生活のための願いではなく、人生の中の祈りが中心だけに、まーるい時間になるだろう。
