
夕飯を食べ終わったあと、お風呂の掃除をしていた長男が、
「あかちゃカタツムリがいたよ」と指の上にのせて見せてくれた。
老眼の進んでいる両親には、もはやそれがカタツムリなのかどうかは判別できぬ。
「待っててくれ。マクロで写真を撮るから」
よく見つけたと思う。
きっと屋外ならば、葉っぱの影かなんかで冬を越して、来年の梅雨時に、あじさいの葉っぱの上に、大きくなった体をみせてくれるのだろう。
こうして地球や宇宙では、命自体が脈々とつながっていくのだなと思う。
「潮音」は、観音経ででてくる「海潮音」から採られた言葉。潮騒の音が絶え間なく続くように、仏さまの慈悲の働きも絶えることなく続いているということ。
少なくとも海を知っている民族がそう感じたのだろう。
海を見たこともない山岳民族がお経を伝えたら、別の表現になっただろう。どんな素敵な表現をしただろうと思いを馳せる。
ちなみに「潮音」と命名された曲は、私のご詠歌の流派では、観音さまをお参りする時に、そのお寺のご詠歌の歌詞を当てはめて唱える曲として用いられます。
