
さて、冥途の世界で、亡くなって次の生が決まらずにいるものたちの亡者の、生前の罪咎について調べていた王さま、家臣、家来の鬼神。
ここまでお釈迦さまの話を聞いて、ずっと疑問に思っていたことを尋ねます。
「考えてみると、どうして私たちはこんなことをするはめになっているのでしょう」と。
するとお釈迦さまは、ゆっくりと話し始めました。
---じつは、ここにいる者たちは、十人の王さまを含めてですが、前世で、他の人が悪いことをしたり、苦しんでいるのを見て、喜んでいたのです。
それだけではなく、
人をそそのかして悪いことをやらせたり、
人が善いことをするとそれを憎み、
人格者が亡くなったと聞くととても喜ぶような生き方をしてきたのです。
物惜しみして自分だけ財産をむさぼり、すぐに怒りだし理性など微塵もありませんでした。
だから、閻魔の国(冥途の世界)に生まれたのです。
かつて『涅槃経』で私(お釈迦さま)が説いたように、仏となる性質は変化することなく遍満しています。
およそ心ある者であれば、みな仏となる種を宿しているのです。つまり、誰でもこのうえない覚りを開くことができるのです。
いいですか。私の言うことがわかる心を持っているならば、その仏の種、性質こそが、あなたの心や周囲を取り巻く灼熱の地獄から離れる力を持っていると、心底納得すべきなのです。
“仏の種の詩”に言うではないですか。
全てのものは変化してやまない。
これが生滅するという大原則だが、
その生滅などという現象世界から離れてしまえば、
心静かな安らぎの世界に入ることができる、と。
私も過去にさかのぼって思い出してみれば、雪山童子だった時、この詩を聞いて、生死という現象世界への執着がなくなり、覚りの境に入ることができたことがありました。---
詩を聞いていた十人の王たちは、心の底から喜びがあふれだしてきました。まるで舌もとろけ頬も落ちそうな美味しい食事を味わったかのようで、それまでの悩みや苦悩の火照りは冷めて、ゆくべき道を発見したようでした。
それを見た、他の者たちも全員が満足そうな笑みを浮かべていました。
何かを悟ったかのうよに閻魔大王が、お釈迦さまに合掌すると、沙羅の林のなかへ歩きはじめ、すーっと姿が消えしました。
すると一人、また一人と、そこにいたものたちが次々に、沙羅の林からかき消すように閻魔国に戻り、全員が自分がやるべきことを見据えた行いをするようになったのです。
今でも、冥途の旅は、悪行を営んだ者たちにとっては過酷で、苦しみの連続です。
しかし、そこに携わるスタッフたちは、お釈迦さまの言葉をしっかりと保ちながら、自分の本分を勤めているのです。-----------完------
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気がつけば、30回にわたって、お伝えしてまいりました[十人の王さまの物語]。「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」を脚色して、さらに「十三仏」信仰をとりいれましてのお取り次ぎ。
こいらで、失礼を申し上げます。ベ、ベン、ベンベン。
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面白いものですね。自分が当たり前のように拝んでいる「法事」って、どうしてやるのだろうと思っていろいろ調べたのは15年ほど前になるでしょう。
その時に出会ったうちの一つがこのお経でした。
道徳を説くために作られたというのが、一つの定説になっています。
「死ぬとこんな目にあうのだから、生きているうちにちゃんとしなさい」という意味があるのです。
そのくらいしないと、人間は、すぐ悪いことをしちゃうんですね。
内容が真実かどはうかは、私も死んだことがないのでわかりません。ひょっとしたら、魂が落ち着くまで、こんなお調べの期間があるのかもしれません。
このお経を信じて、まじめに一生懸命悪いことをしないで生きていくことも一つですが、私は皆さんが「悪いことはしておくのはやめよう」と思った時に、このお経を思い出していただければいいと思っています。
その時、この話の大部分が、死んでからの架空の話ではなく、実は生きている間に起こっていることを、冥土の話として比喩的に使われていることを納得することになるかもしれません。
さて、次回は・・・。
まあ、明日は明日の風が吹くでしょう。うははははは。
