
さて、これまでのお取り調べでも、埒のあかない亡者たちは、ついに丸二年目になって、五道転輪王(ごどうてんりんおう)の元へと送られます。
生前に犯した罪(殺生、盗み、邪淫、嘘、悪口、乱暴な言葉、ケチなど)をジャンル別にわけて調べるのは、もう終わっていますから、ここでは「邪見」について、総合的なお調べがあります。
「邪見」は文字通り、“邪(よこしま)な物の見方”についてであります。
もともと、私たちはこの“邪見”があるから、さまざまな悪行をしてしまうわけで、その根本の「ヘンテコリンな物の見方」を調べられるのです。
人を、他(自然や物)を、そして自分を傷つけるさまざまな言動は、我というものさえ、さまざまな縁の集合体であることに気づかずに、絶対なものだと思って我に固執することから発生しているのでしょう。
すべてのものは常に変化しているという大原則(この原則だけは変化しないというパラドックスですけどね)に、気がつける心の余裕、それを培(つちか)ってこなかったゆえの悪行。
弁護に立つ阿弥陀さまは言ってくれます。
「私の世界においで。極楽って言うくらいで、何にも心配いらない世界だから。安心して修行できるから」
さて、人が亡くなってから十人の王さまの庁舎へおもむき、生前の罪についてお調べを受け、過酷な目にあわされてきた亡者たちの悲惨な模様を説いてきたお釈迦さま。
それを真剣な表情で聞いていた冥途の10人の王さまや、その家来、さらにその配下の鬼神たちは、申し合わせたように立ち上がって、合掌してお釈迦さまに、ずっとずっと疑問に思っていたことを尋ねます。
--- お話はよーくわかりました。しかしながら、亡者たちの処遇は自業自得として仕方ないことだとは思うのですが、いったいどうして、ここにいる私たちは、こんな苦しみに満ちた世界で、亡者たちを調べ、痛めつけているのでしょうか。
亡者たちよりは、ずっと楽な身分かもしれませんが、私たちだって、もっと快適な場所で暮らしていきたいと、ずっとずっと望んでいるのです。
私たちがどうして、こんな場所で、こんなことをしているのか……ここにいる者たち全員は、ずっと昔から、ことあるごとにその話をしていたのです。---
この言葉を聞いてお釈迦さまは、深くうなづいて、落ち着いた声で、全員に聞こえるように言いました。
……なんて、言ったか。
それは次回、最終回におつなぎいたしまして、
次回、いよいよ、『十人の王さまの物語』、『地蔵菩薩発心因縁十王経』芳彦流脚色訳のしめくくりとなります。
面白いことを言うんですよ、お釈迦さまは。
○ ○ ○ ○
昨日は、地元のロータリークラブの例会で30分の卓話。行ってみたら、直接お話を紹介してくださった方以外に、亡き父と大の仲良しだった方の息子さん、そして戦争で亡くなった私の叔父の教え子の方も、わざわざ声をかけてくだれったりで、親や叔父の七光の中にいる自分を実感しました。
そして、お檀家さんの訃報をいただいて、枕経へ。初めてのお葬式ということで、一時間の打ち合わせの中で、葬儀関連の習俗や儀式とその裏にある温かい人の思いなんかをお話させていただきました。しっかり看病をして、看取りをしたご家族でしたので、ホンワカとしたいい時間でした。
