
さて、人が亡くなって百日目。平等王が裁くのは、貪(むさぼ)りの心。この『十王経』の作者の、貪りの反対語である施しは“平等”であるべきだという主張がすでにこの王さまの名前に出ているような気がしてきますね。
ここで弁護に立たれるのが観音さま。
観音さまは、その別名「観自在(菩薩)」が示すように、物事のとらえ方が自由で自在な方です。もちろん、自由自在とはバランスがとれた上で、「人々のために」という前提があります。
時々、仏教や宗教を極端に捉えるがいます。これは、信じている人も、客観視している人も同様です。
「人々が幸せでありますように」、などというのは、当たり前のことです。
問題は、その前に省略されている「○○教のおしえによって」とか「「○○宗の教えによって」とかという言葉---それらが省略されていて、カモフラージュされていることが多いものです。
そこは、踏み込んだ内部の人間にしかあかされない世界――ズルイですね。最初からきれいに説明すればいいのに。
信じている人にとっては、かつての自分の○○教や○○宗に対するアレルギーを知っていますから、一般の人には、それは隠された形にしておいたほうがいいという判断でしょう。
仏教も「なんだか難しい」とか「自分が何気なく普通に思っている世界感をぶちこわしてしまいそうだ。だから嫌だ」と思う場合があるものです。
私はそこを何とかしたいと思います。
実際、私は普通に暮らしています。普通に仏教徒です。たいした信心家ではありません。ただ、心が安らかでありたいと思います。どんな困難にぶつかっても前向きでありたいと思います。
仏って何だ?――自分の本当の気持ちのことだよ。
信じるって何だ?――わからないことをわからないとしておく勇気のことさ。
そんな言い換えができればなぁと思います。
観音さまのことも、同様に考えられればいいと思います。
おそらく、この拙いブログを読んでくださっている方は、拙著をお読みいただいていると思うので、まだお手もとにあれば、観自在菩薩の説明を再読してください。
平等王に、観音さまがどんなことを進言し、亡者に対して何を説くのかは、お分かりいただけると思います。
ということで、次に亡者は九人目の王さま(今度は一周忌になります)の前へと引き出されます。
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昨日と今日で、東京の東の外れの密蔵院から西の小平まで、渋滞を避けて片道60キロを二往復。合計で240キロを運転して、少々バテテます。私は、あんまり運転好きじゃないんです(昨日今日はまだ自分で運転したからいいですが、他の人の運転だと尚更です。ぐはは。)。
お檀家さんとは全く無関係な方のお通夜と葬儀をしたのは初めてでした。
多くのことを学んだ二日間でした。僧侶として、少なからぬ成果がありました。
私が住職としていかに小さな世界にいるかもわかりました。そして、その小さな世界がいかに充実していて、寺や坊さんといかに密接なつながりをもっているのかも痛感しました。
私はたまたま密蔵院の住職になっていますが、このお寺ができてから文献で遡れるのは320年ほど。
でも、その長い、長い間に熟成されてきたお寺と檀家さんの関係があります。
私はその320年を2日間でやってみようと試みたのかもしれません。
いわゆる「頼まれ坊さん」たちがお通夜やお葬式に拝みに行く一見(いちげん)の方々と、どのようにコミニケーションをとれているのか、私にとっては、ほとんど不可解です。
だって、二日間で、仏教とか、お寺とか、坊さんとかに対する共通理解が、双方の間でほとんど取れるはずはないと思うのです。
檀家さんだけを相手にしている(いわば会員制寺院という制度宗教としての)寺や坊さんへの、大きな反動が迫っているのを、実感した二日間でした。
坊さんは、まだまだやることが山積しています。
応援してくださいなんてことはいいませんが、せめて温かい目で見守ってやっておくんなせぇ。わははは。
