
斑衣厥婆(はんいけつば)は、既に500余歳を経ている女怪。肌のしなやかさは少しも処女と異なることなく、そのなまめかしい姿態は鉄石の心をも溶かすと言われていた。肉欲の楽しみを極めることをもって唯一の生活信条としていたこの老女怪は、自宅の裏庭にたくさんの部屋を並べ、容姿端麗な若者を集めてこれを満たし、その楽しみに耽(ふけ)るために、交友を断ち、昼をもって夜に継ぎ、三カ月に一度しか外に顔を出さないのである。
悟浄の訪ねたのはちょうどこの三カ月に一度の時だった。
道を求める者と聞いて、女怪は悟浄に言った。物憂い疲れの翳(かげ)を美しい顔のどこかに見せながら……。
――この道ですよ。この道ですよ。聖賢の教えも仙哲の修行も、つまりはこうした無上法悦の瞬間を持続させることにその目的があるのですよ。
この世に生まれることは、大変な困難なこと、その上、死は呆れるほど速やかに襲いかかってくるのです。遇(あ)いがたき生をもって、及びやすき死を待っている私たちとして、いったい、この道のほかに何を考えることができるでしょう。ああ、あのしびれるような歓喜!常に新しいあの陶酔!――
さらに、斑衣厥婆(はんいけつば)は言います。
――悟浄が醜いから本当のことを言うが、後ろの部屋では毎年百人の若い男が疲れのために死んでいく。それも喜んで、満足して、と。
そして、最後に斑衣厥婆(はんいけつば)はこうつけ加えます。
「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ」
醜いがゆえに、毎年死んでいく百人の仲間に加わらないで済んだことを感謝しつつ、悟浄はなおも旅を続けます。
※ ※ ※
「徳とは楽しむことのできる能力」……なるほど。
大辞林によると【徳】の第一の意味は[修養によって得た、自らを高め、他を感化する精神的能力]とあります。この場合の「他を感化する」が、どの範囲までなのかは大いに問題になるところ。極端に限定された中だけで通じる「徳」では、それは徳とは呼べないのではないかと思うのですが……。
多くの怪しげな宗教団体が、斑衣厥婆的ハレンチ儀式の要素をもっているのは、このような、言葉の意味のすり替えが行なわれているからなのでしょう。『悟浄出世』の中島敦、アッパレであります。
さて、この物語、訪ねるべき聖の所へ行く前に、悟浄の「我とはなんですか?」という質問に、沢山の賢者がこたえる場面へと続きます。こりゃ面白いです。
