沙悟浄が三蔵法師と会う前、まだ川の底で妖怪として、一人心の病と闘っていた時のことです。
当時の悟浄は今まで当然として受け取ってきたすべてが、不可解なものに見えていました。今までまとまった一つのことと思われたものが、バラバラに分解された姿で受け取られ、その一つの部分部分について考えているうちに、全体の意味がわからなくなってくるといったふうでした。
では『悟浄出世』より、黒卵道人(こくらんどうじん)との段をダイジェストでご紹介します。
その悟浄が河底に住む賢人たちに教えを乞うために出発して最初に訪ねたのは、そのころもっとも高名な幻術の大家の誉高い黒卵道人。
魚面人身でよく幻術を使い、存亡自在、冬、雷を起こし、夏、氷を造り、鳥をはし走らしめ、獣を飛ばしめるという噂。悟浄はこの道人に三月の間仕えた。幻術などどうでもいいのだが、幻術をよくするくらいなら、真人であろうし、真人なら宇宙の大道を会得していて、悟浄の病をいやすべき智恵も知っていようと思われたからだ。しかし、彼は失望せぬわけにはいかなかった。
河の浅瀬の洞窟で、黒卵道人もそれを取り囲む弟子たちも、口にすることといえば、すべて神変不可思議の法術のことばかり、また、その術を用いて敵をあざむこうの、どこそこの宝を手に入れようのという実用的な話ばかり。悟浄の求めるような無用の思索の相手をしてくれるものは誰一人としておらなんだ。結局ばかにされ笑いものになった揚げ句、悟浄は洞窟を追い出された。 中島敦著『悟浄出世』より
次に向かったのは沙虹隠士(しゃこういんし)という、エビの精のもと。ここで彼は沙虹隠士の深遠な哲学にふれることになりますが、そのご紹介は、次回……。
