
中島敦の『悟浄出世』は、西遊記で、沙悟浄が三蔵法師と出会う直前までの物語。中国文学だけでなく仏教にも精通している筆者の知識と構成力には驚かされます。
同じ本は二度読まない私ですが、中島敦作品だけは別格であるのだなと気づきました。
中島が描いた悟浄は、現代の若者や、仏教を知識として吸収しようとする人たちと似ています(私も似たところがあります)。つまり一種の「病気」です。
本文を少し引用してみましょう。
医者でもあり・占星術師でもあり・祈祷者でもある・一人の老いたる魚怪が、あるとき悟浄を見てこう言うた。
--やれ、いたわしや。因果な病にかかったものじゃ。この病にかかったが最後、百人のうち九十九人までは惨めな一生を送らねばなりませぬぞ。--中略--この病におかされた者はな、すべての物事を素直に受け取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても『なぜ』とすぐに考える。究極の、正真正銘の、神さまだけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の約束ではないか。ことに始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いを持つことじゃ。なぜ俺は俺を俺と思うのか?他の者を俺と思うてもさしつかえなかろうに。俺とはいったい何だ?こう考え始めるのが、この病の一番悪い兆候じゃ。どうじゃ。当たりましたろうがの。お気の毒じゃ、この病には、薬もなければ、医者もない。自分で治すよりほかはないのじゃ。よほどの機縁に恵まれぬかぎり、まず、あんたの顔色の晴れる時はありますまいて。--
悟浄は、河の底に住むあらゆる賢人、あらゆる医者、あらゆる占星師に親しく会って、自分に納得のいく教えを乞うと旅にでかけます…。
このブログ、この先ちょっと悟浄と一緒に旅をしてみようと思います。
