
今日のご法事は、私と同い年の方の100カ日法要。
この方が沖縄出身で、法事の後席で、実兄の方が献杯の発声する担当することになった。
ところが……
沖縄には、こうした場での献杯という習わしがないそうである。
葬儀など死者供養の際には、喪に服すことに主眼が置かれ、本土のようにお酒がだされることはないのだそうだ。
まだ坊さんになりたての頃、私も「お清め」と称して酒を酌み交わすこの習慣は何じゃろか?と思ったことがある。
一般に言われているのは
①「お清め」の言葉通り、「死」という異常事態をケガレと考えてそれを浄化するためのもの(お酒のアルコール分がどれほどの殺菌作用があるかははなはだ疑問であるけれど)。この点では、沖縄でも使われる「清め塩」と同根である。
②私たち残こされた者は、「死」という異常事態の中にずっと留まっているわけにはいかない。そこで、日常にもとるために「精進落とし」として、お酒の力をかりるのである。仕事を終えて、一杯やってプライベートに戻るのと似ている。お酒がディズニーランドの帰りのゲートの役目を果たすと言うと、尚分かりにくいか……。
そして、もう一つはとても個人的推量だが……
③親しい人の「死」に直面した時、「酒で飲まなければ切なくって仕方ないから」というものだ。
よって、亡き人に対して、盃を献じる「献杯」というシキタリが出来上がったのだと思う。この習慣は仏教ではない。しかし、仏教と矛盾しない思いが根底にあることは確かだろう。
私がお酒を飲むからというわけではないが、こういった習慣は長く続けばいいなと思う。
午睡をして酔いが覚めたので、今月ある2件分の塔婆を書いた。そして、塔婆が書けたので、ブログを書いた、という訳である。
