
今日は、東京の西、府中にあるお寺でお話と続く法要の解説役。
午前11時に車で出発するも、首都高速は、サンデードライバー多数のためか合流の手前1キロからノロノロ運転。
そこでふと目にとまったのが、トラックと乗用車がぶつかったイラストの看板。看板の下には「追突死亡事故発生現場」の文字。スピードオーバー運転や不注意ドライバーに注意を喚起するために、よく見かける言葉だ。
私は49年間の人生の中で、この種の看板を見たことあまたあれど、今日の日まで「なるほど、この見通しの悪さでは事故が起きるだろう」とか「どうしてこんな直線で事故なんか……きっと居眠り運転だろうな」くらいしか考えたことがなかった。ところが……
ところが、今日は違った。ノロノロ運転で時間に余裕もあったからだろう。思わず心の中で「ぎゃーてい・ぎゃーてい・はーらー・ぎゃーてー・はらそー・ぎゃーてー・ぼーじー・そわか」と、亡くなった方の冥福を祈った(というより祈ることができた)。猫や犬が轢かれている現場を通る時にはギャーテーと唱えているのだが(気味の悪い話で恐縮であるが)かつての現場で心に思ったのは初めてだった。
もとより、そんな生々しい看板がない所でも人は亡くなっている。病院、昔の合戦場、海、山、川……いたる所で人は亡くなっている筈だ。人だけではない、命あるものがその命を終えた所は--蚊を叩いて殺生した自分の手の平もふくめて--当たり一面そうなのかもしれぬ。
いのち終焉の場所すべてで、手を合わせて拝んでいたのでは前に歩くこともできないし、現実的でない。だからこそ……
だからこそ、私たちは毎朝(毎夕)、仏の前に香を手向けて、合掌し、お経をあげるのだろうと思った。仏壇や、本堂、辻辻のお地蔵さまたちに亡き人や命にたいする冥福を祈る気持ち……自分に関わりのある命への追悼だけでなく、心のベクトルをより広範囲に向けていく……そんな意味が、毎日のお経の一つの意味ではあるまいか。
