とても暑くなった東京下町密蔵院の前のバス停(写真はイメージです)。ところがバスを待つ人はバス停付近にはおらず、数メートル離れた街路樹が作る日陰で待っている。バス停というのは、バスが来てから有効なものだ。従って、バスが来ない間は、街路樹がくつり出す日陰のほうがずっと価値がある。仏教が敬遠されるのは、ひとえにそんな理由からだろうと思った。自己肯定や自己存在を意識することは、バスを待ってのようなものなのだ。現実的な「認めてよ」とか「いいね」を期待したり「お金が全てでしょ」と言うのは、とりあえず現実を生きるために、バス停から離れた日陰で待っているようなのものなのかもしれない。でも、私は、バスが来る時のために、バス停で待っている勇気を、少し持ちませんかということをお伝えしたいのかもしれない。むはは。
和尚ブログ ほうげん日記
2019年06月06日