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その八 おむつをかえる時[不垢不浄]

「何もない所から生じたり、滅すれば何も無くなってしまうということはないのだよ」という[不生不滅]の次には、
(垢つくということもなければ、浄らかということもないのだ)[不垢不浄]
と続きます。
つまり、ものごとの本当の姿は、汚いとかきれいということもないのだ、ということです(仏さまの境地からすると、ものごとの本当の姿はすべて、本来とても清浄なものであるという考え方もあるのですが、ここではふれません)。
お茶殻が汚くなる時

美味しく飲んだお茶。そのお茶の葉も急須の中にあるうちは、どうということはありませんが、いったん流しの三角コーナーやゴミ袋に捨てられたとたん、汚く感じることがあります。お茶殻はあくまでお茶殻であり、それが急須にあろうと三角コーナーにあろうと、それできれいになったり汚くなったりするものではないはずです。
それが、「不垢不浄」ということです。さまざまなものを、汚いとか、きれいだと認識するのは私たちなのです。そのもの自体には、本質的に汚いとか、きれいということはないわけです。それを汚い、きれいと判断するのは、私たちの「ご都合」——つまりエゴだというのです。
食事中の方は、この先は読まないほうが賢明かもしれません。
我が子と他人
たとえば、わが子のおむつを取りかえる時、母親はウンチが手についてしまっても、そのあとに手を洗って、平気でパンを素手で食べることができます。

しかし、さんざん厭味をいわれつづけた姑の世話をする時に、ウンチが手についたらどうでしょう。とてもそのあとに素手でパンを食べる気になれない……
ウンチ自体に、きれいなウンチもなければ、汚いウンチもないはずです。排泄物という概念が、ウンチは汚いと考えさせているだけです。さらに、我が子のそれと姑のそれでは汚さが倍増します。
しかし、子供の頃にこう考えた方はいませんか。「私は不要なものを排泄物として捨てているのではく、ウンチを製造しているのだ」と。
仏教ではまず、ものごとの本質を見極めよ、と言います。それが分からないと、誤った見方をしてしまう、さらに誤った見方がもとになって、苦しみになっていくと——。
「ものごとには垢ついているとか、浄らかさが本質的に備わっていることはない。それを垢、浄と認識するのは、あなたのエゴであることを知りなさい。そして、そのエゴさえも、確固たる信念であるように思っているが、そのエゴの実体は空であって、いつも変化しているんだ」と般若心経は、不垢不浄を説きます。