真言宗豊山派 もっとい不動 密蔵院

ウェブ連載 「…なんだそうだ、般若心経」名取芳彦

はじめて読むひとは、ぜひ「その1」からお読みください

その十 絶対なんて絶対ない…[是故空中無色無受想行識]


(くう)」とは「すべてのものは、条件によって常に変化して、同じ状態でいることはない(諸行無常(しょぎょうむじょう))。それゆえに、ものごとにそのもの固有の実体というものはない(諸法無我(しょほうむが))」ということ。
挿絵:宇宙・空(これゆえに)[是故(ゼーコー)
と般若心経は続きます。
(この宇宙をあまねく網羅している「(くう)」という法則の中では、物体もそれ固有の実体はないのだ)
これが、
空中無色(クウジュームーシキ)
のいわんとすることです。「空気には色がなく無色透明だ」という意味ではありませんので、念のため。

湯呑み…なんてものは無い

挿絵:急須と湯呑みまず、手近なところにある湯呑みを目の前に出してみてください。
皆さんの前にある湯呑みは、湯呑みのようですが、それは膨大な縁の集合体としての、仮に「湯呑み」という名称にしたものということです。
まず湯呑みは何からできているでしょう。ちょっと考えれば、粘土と染料とうわ薬でしょうか。しかし、その粘土にしても成分として泥、砂、ほかにも色々な物質からできているでしょう。

と、ここまでは見た目での要素(縁)のことです。しかし、この湯呑みには他にも火という力が加わっています。そう考えると、「集合体としての湯呑み」であることが分かるでしょう。
しかし、粘土だけでは湯呑みにはなりません。この粘土を山から掘り出した人がいます。運んだ人がいます。粘土をこねて、湯呑みの形にした人がいます。釜で焼いた人がいます。製品になったものを梱包(こんぽう)した人がいます。買った人がいます。それにお茶を入れてくれた人がいます。
そして、そのお接待のお茶を飲むあなたがいます。あなたがその湯呑みでお茶を飲むことで、その湯呑みは湯呑みになりえます。湯呑みだと思っていても、この器に花が活けられれば花瓶ですし、灰を入れてお線香をたてれば線香立てですから。
これらの縁は、まだまだ細かく分かれます。山から粘土を掘り出した人は、素手で掘ったわけではないでしょう。スコップかもしれません。そのスコップにせよ、そのスコップを作った人がいます。スコップの材料である鉄も、どこかの製鉄所で製鉄されたものですし、鉄を含んだ鉄鉱石は大きな船で、船長さんが時化(しけ)にあいながら外国からから運んできたものでしょう。

挿絵:湯呑みは縁の集合体このように、あなたの前にある湯呑みは、無数の縁の集合体なのです。「湯呑み」という固有のものはない、ということがお分かりいただけたでしょうか。
湯呑みだけでもこれだけの縁の集まりですが、それに注がれるお茶にしても、お茶の葉やお湯などの縁を考えると、自分がその湯呑みでそのお茶を飲むということがますますたいへんな縁であることがわかります。そのどの一つの縁が欠けたり変化しても、たとえば自分で買ったお茶か、どなたからいただいたお茶かによっても、今この時のお茶は別のものになっていたはずなのです。
挿絵:美味しいお茶をいただきますそれらの縁が結びつくのは、可能性としてはごくごく小さいものです。しかし、そのごくごく稀であるはずのことが起こった――それを称して「有ること難し」で「有り難い」とお茶をいただくわけです。

般若心経では、この「(しき)も無く」の句の後に、「(じゅ)(そう)(ぎょう)(しき)も無い」と続きます。
無受想行識(ムージューソウギョウシキ)
という部分です。

行もない

まず、夕焼けを例に、心の行為である「(ぎょう)」が無いということを考えてみます。
哲学の問題に「夕焼けは、人類が滅亡しても、赤いか」というのがあります。
挿絵:西郷どんと土佐犬ふつうは「そりゃ赤いさ」と答えたくなります。しかし、赤という色を認識できる人間がいなくなってしまえば、犬や猫などは色盲と言われていますから、赤という色彩は認識できません。つまり、赤という色彩自体がなくなってしまうわけです。夕日は厳然として夕日です。しかし、それを赤と思う生物がいなくなってしまえば、もはや夕日は赤ではありません。犬にしてみれば、黒に見えるでしょう。
つまり、私たちが「夕焼けは赤い」と心で行なう行為は、普遍的なものではないということです。これが「(ぎょう)も条件が変われば変化する」ということ。(くう)の大原則の中では「行」も一定不変ではないということです。

識もない

次に、同じく太陽を例に、知識の働きである「(しき)」が無いということをみてみます。
日本の子供たちがお日さまの絵を描く時は、朝日や夕日以外でもほとんどの子が赤く塗ります。しかし、西洋の子供たちは黄色で塗ります(実際に、赤く見えるのは太陽が水平線に近い時だけです)。
挿絵:レッド・サン三十年近く前に、三船敏郎、アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソンの世界の三大スターが共演した西部劇がありました。この映画のタイトルは「レッド・サン」。つまり「赤い太陽」でした。日本人にしてみれば「赤い太陽」は当たり前のタイトルですが、西洋人にとっては黄色であるはずの太陽が「レッド・サン」となったので、このタイトルはインパクトがあったそうです。
太陽は赤いという私たちの固定概念が、いかにあやふやなものかが分かります。「太陽は燃えている。燃えるものは赤い。だから太陽は赤いはずだ」という判断も、普遍的なものではないということです。火は赤ばかりではありません(ガスの火は青ですものね)。

次に「受と想が無い」ということを考えてみましょう。
これも、ものの形を受け取る器官が絶対的なものではない、というくらいの意味に考えてみると分かりやすいでしょう。

受も想もない

挿絵:望遠鏡視力が良い人と、視力が悪い人とでは、はっきり見えたり、ぼやけて見えるということで、見るものの形がすでに異なっています。また、捜し物をしている時に、目の前にあっても気がつかないことがよくあります。「目に入らない」とか、逆に「目の中に入り過ぎてしまってわからない」という経験をしたことがあるでしょう。
見ているようでも見ていない。脳には映像が届いているのですが、脳が勝手に、不必要なものは意識しないという機能を働かせているのです。これが(じゅ)(そう)も絶対的なものではない[無受想(ムージューソウ)]ということです。

ここで[是故(ゼーコー)空中無色(クウジュームーシキ)無受想行識(ムージューソウギョウシキ)]をまとめてみましょう。
挿絵:宇宙・空「(だから)ものごとは条件によって常に変化していて、そのもの固有の実体はないというこの空という法則の中では、あなたが、あると思い込んでいる物から、どんなことを知覚しても、思っても、判断しても、それが絶対だなんていうことはないのです。それが世の中の本当のありようなのです」
この仏さまの言葉、はたしてお弟子である舎利子に分かったでしょうか。
この先、般若心経は、いま少し、哲学的な話題が続きます。

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