真言宗豊山派 もっとい不動 密蔵院

ウェブ連載 「…なんだそうだ、般若心経」名取芳彦

はじめて読むひとは、ぜひ「その1」からお読みください

その六 何気なくしていることの裏側[受想行識亦復如是]


挿絵:きょうの料理、太巻きずしの作り方さて、この章で説明しようとする[受想行識]の四つは<その三>でふれました。また<その十>でも別の例を使って扱いますので、ここでは、先ほどできあがった太巻きで、くうと縁ということについてみていきましょう。

前章で、[色即是空]は(太巻きは即ち、その時の材料と味付けと作る人によってできあがる)ということ、また[空即是色]は(その時の材料と味付けと作る人によってできるのが即ち、太巻きである)ということについて説明しました。
この有名な[色即是空、空即是色]の後には次の句がつづきます。
「受想行識も亦復またかくの如し」[受想行識亦復如是]
(受、想、行、識も同じように条件によってできあがっているもので、永遠不変ということはないのだ)

受想行識は気分しだい

挿絵:太巻き 盛り付け例できあがった太巻きを、お寿司屋さんは丸ごと一本出すわけにはいきませんから、輪切りにします。その切り方も盛りつけの仕方もお寿司屋さんの感性にかかっています。なるべく食べやすいように、見た目においしそうに切り、盛りつけられて私たちの前に出されます。お寿司屋さんが違えば、違った太巻きが、違った盛りつけで私たちの前に出されます。

ですから、お寿司屋さんによって太巻きが変わるだけではありません。私たちがその太巻きをどう受け取り、どう味わい、どんな思いで食べるかも、材料、盛りつけ、お店の雰囲気などで変わってしまうということです。 このように私たちがどう思うかも、決していちようではない――それが「受、想、行、識も亦復またかくの如し」ということです。

言葉と、それを理解する私

挿絵:なんだそうだ般若心経を読む二宮金次郎「是のごとし」というのは、「色が空であるのと同じように」という意味ですから、ここでふたたび「くう」について「今この文章を読んでいるあなた」を例にして考えてみます。

あなたは今この文章を読んでいます。私たちはふつう、自分がこの文章を読み、内容を理解していると考えます。
しかし、そこにはまず「文字」があります。
そして、それを見る「目」があります。
次に見た文字を神経が信号として「脳」に送ります。
そこであなたは過去の知識を利用して、その文字の意味を「思い出し」ます。
そして、それらを結合させて、一つの意味のある文章として、組み立て直し、さらに意識して、こういうことだと「理解」しているはずです。これらを一瞬にして行なっているのですから驚くばかりです。

日本語を流暢りゅうちょうにあやつる外人にも、なかなか使えない日本語に「郵便局へいってきてくれませんか」という文章があるそうです。
文法からいえば、これから郵便局へ行くことを頼むのに「行って」「来て」は過去形です。おまけに「くれません」は否定形で、「郵便局には行かなくていいのだろうか」と思います。最後には疑問の「か?」がつきます。
構文上も複雑をきわめます。「行って、来て」ですから、いったい「行くのか」「来るのか」よく分かりません。

挿絵:郵便局へ行ってきてくれませんか?しかし、私たちはこの「郵便局へ行ってきてくれませんか」を「郵便局へ行ってから私の所へ戻って来るということはご迷惑でしょうけど、それをやって下さるでしょうか」と判断します。
これがわかるためにはまず「郵便局」を知らなくてはいけません。消防署でも銀行でもなく「郵便局」だとわからなくては仕方がありません。
つぎに「行って」が過去形ではなく、相手が用事をすませて自分の所に戻ってくる未来の時を基準にしていることを知っています。
そして「来て」も、「行く」のだから当然「戻る」ことが前提になっていることを承知しています。

挿絵:郵便局はどこ??また「くれませんか」は、もし相手が行ってくれることが嫌だと申し訳ないという、相手に気を使ったいい方なのを知っています。
だからこそ、あなたが「郵便局へ行ってきてくれませんか」といわれれば、「自分が消防署でも銀行でもなく、郵便局へ、行き、用事をすませ、再び相手の所へ戻ることを、相手は恐縮しながら依頼している」ということがわかるわけです。

これと同じように、あなたがこの文章を理解しているということは、さまざまな条件が整ってはじめて可能になるわけです。

なぜ、なぜ、なぜ……

挿絵:文章を書く別の例で説明してみましょう。
あなたはこの文章を読んでいます。読めるのは目が見えるからですよね。
それだけではありません。なぜこの文章があなたの目にふれたのかを考えてみると、さあ大変です。

この文章を私が書いているのは平成十一年三月二日火曜日の午後十時です。なぜ、この時間に私がこの文章を書いていられるかといえば、とりあえず私が生きているからです。
では、なぜ私が生きられるのかといえば、食事を作ってくれた人がいて、それを食べているからです。

いや、そもそもこの文章を、なぜ書こうと思ったかといえは、私がお坊さんになったからです。
なぜ私がお坊さんになったかといえば、私が生まれたからです。生まれていなかったらお坊さんにはなれませんものね。
そして、私が生まれたのは、両親がいたからです。

起こったことと起こらなかったこと

挿絵:文章を書く例として、すでに起こったことばかり書きましたが、忘れてならないのは起こらなかったことです。
私が今この文章を書いていられるのは、生きているからだと書きましたが、変ないい方をすると、私が死ななかったから、今この文章を書いていられるわけです。今日事故に合わなかった、お寺に飛行機が落ちてこなかった、心臓が止まらなかった、他に急いでする仕事がなかったなど「なかった」という条件も、「起こったこと」と同じだけ含まれています。

――と、今あなたがこの文章を読んでいる、という一つの状況を考えただけでも、私が生まれる前からの、起こったこと、起こらなかったことなど、無数の条件がととのった結果であることがお分かりいただけるでしょう。

そして、この条件が変われば、結果も変わってきます。
あなたはこの文章を昨日読んでいたかもしれませんし、明日読むことになったかもしれません。あるいは、あなた以外の人が読んでいた可能性もありますし、この本がゴミとして捨てられていた可能性もあります。条件しだいです。せめてこの(その六)だけは読むつもりでも、来客があれば読み続けることはできません。こういった条件はどんどん変わっていきます。これを「諸行無常しょぎょうむじょう」といいます。

縁に善悪なし

挿絵:自由の女神と「なんだそうだ、般若心経」また、この条件のことを「縁」といいます。この「縁」には、良し悪しはありません。
諸行無常とは、縁がより集まって物があり、またその縁は常に変化しているという、永遠の自然の摂理せつりのことをいっているだけです。

結婚することを良縁によって結ばれるといいます。しかし、縁によって夫婦になったことはまぎれもなく真実ですが、それが良縁なのかどうかは分かりません。
離婚する夫婦はたくさんいますし、離婚できずに苦しんでいる夫婦もたくさんいるのです。親の離婚によって苦しむ子供もいれば、親が離婚しないために苦しんでいる子供もいるのです。

このように、うわべだけの世間体せけんていで判断するような良し悪しは、絶対的なものではありません。仏教では、時代や地域によって変化してしまう社会的な良し悪しを基本にはしません。時代や場所に左右されない基本となる考え方が必要です。般若心経の前半が哲学的な認識論と存在論を述べ、人情味がないのはそのためです。

挿絵:萬恩に生かさるる身の百恩を知る せめて一恩に報ぜんしかし、仏教によって、より良い人を目指そうとする歴史の中で、日本では私たちをより良い方向に向かわせる条件のことを「ご縁」とか「おかげさま」というようになっています。
お坊さんがよく「ご縁」とか「おかげさま」の話をするのは、諸行無常というお釈迦さまが悟った内容の一つを、私たちがよりよく生きていくために発展させた考え方なのです。

▲このページの上部へ戻る