真言宗豊山派 もっとい不動 密蔵院

ウェブ連載 「…なんだそうだ、般若心経」名取芳彦

はじめて読むひとは、ぜひ「その1」からお読みください

その十七 考える力[三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提]


仏教では過去、現在、未来の三世にわたって、多くの仏さまがいると考えます(その十三を参照してください)。
(これらの仏さまは、)[三世諸仏(サンゼーショーブツ)
(覚りに至るための智慧を身につけることによって)[依般若波羅蜜多故(エーハンニャーハーラーミーターコー)
(覚りを開くことができたのです)[得阿耨多羅三藐三菩提(トクアーノクターラーサンミャクサンボダイ)
覚りには智慧が必要だということをここで、繰り返し述べています。
挿絵:三世諸仏この覚りというのは、色々な形容をされますが、そのなかに「この上もない、正しく平等な目覚め」といわれる場合があります。梵語にもどると「アヌッタラー・サムヤックサンボーディ」という言葉になります。この梵語を音写したのが「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」です。

励ましのつもりが大きな負担

さて、ここでもう一度、覚りに至るための般若(智慧)について考えておきましょう。智慧というのは、「考える力」あるいは「真実を見抜く力」といいかえてもいいでしょう。

ふつう仏教には、八万四千の入口(法門(ほうもん)ともいいます)があるといわれます。八万四千という数は、ほとんど無数という意味です。なぜ、そんなに多くの入口があるかといえば、お釈迦さまが場所や相手によって、いい方を変えたからです。つまり表面的には、矛盾していることをおっしゃった結果です。
挿絵:ロダン 考える人身近な人をなくし、悲しみに打ちひしがれている人に、「がんばって」とか「元気を出して」といってはいけないといわれます。なぜなら、悲しみと喪失感の中にいる人へのそうした――一見励ましと思える言葉は、当人にとっては心の負担にしかならないからです。大切な方が亡くなって、心の整理がまだついていない人に「こんなに悲しんでいてはいけない、いわれたように元気を出さなければ」と思え、というのは余りにも残酷です。元気など出る状況ではないのですから。

しかし、身近な人の死を、ある程度納得しはじめた人への「元気出して。あなたには、まだやらなければならないことが、あるじゃないですか」という励ましはすべきでしょう。
このように、ある時は「元気を出して、というべきでない」といい、ある時は「元気を出して、というべきだ」とお釈迦さまはおっしゃったのです。そのために多くの、一見矛盾した教え(お経)が伝えられることになりました。

挿絵:考える不動明王仏教でいう智慧とは「死んでしまったのだから、仕方がないではないか」という事実を見抜くことではありません。それは遺族がそなえるべき智慧でしょう。周囲の人の智慧とは、その遺族がどんな思いでいるのかを見抜いて、いまその人に何をいってあげることが良いのかを考える力のことです。

都合のいいこと、悪いこと

挿絵:人の都合、虫の都合もう一つ、日本人の霊魂観念の特徴である「禍福(かふく)のみを霊で説明しようとする」ということで智慧について考えてみましょう。
「禍福のみを霊で説明しようとする」というのは、何か悪いこと(禍)があると、それを水子や先祖などの霊の仕業(しわざ)と考えたくなり、良いこと(福)があると、それも先祖などの霊のおかげと考えるということです。

問題なのは、禍福だけしか説明しないことなのです。禍でも福でもないことには、霊の出る幕はありません。今あなたがこの文章を読んでいることを、水子の祟りだとか、先祖のおかげだとか考えないでしょう。あなたが男であり、女であることを、霊の仕業とか、霊のおかげとは考えないはずです。

挿絵:人の都合、虫の都合なぜなら、男であり女であることが、そして今この文章を読んでいることが、あなたにとって、禍とか福という意識がないからです。それをそのまま受け入れているからです。
この文を読むことがとても苦痛であれば、それを先祖の祟りだと考えるかもしれません。女に生まれたことを幸せに思っている人は、ご先祖さまのおかげだと考えるかもしれません。

もし霊によって私たちの日常が支配されていると考えれば、朝起きることも、歯を磨くことも、トイレにいくことも、歩くことも、呼吸をすることだって、霊の仕業と考えるべきでしょう。
つまり私たちは自分のご都合によって、霊というものをつくり出しているといえるでしょう(霊の存在の有る無しについてはここではふれません)。この「自分の都合の良い時や、悪い時ばかりに、霊の仕業にするのは変でないか」と考えることを「智慧」というわけです。

うまくいえない覚り

さて、もう一つ「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」についてふれておきます。ちょっとビックリされるかもしれませんが、仏教でいう「覚り」について、仏教では何ら定義づけをしていません。「覚りとは、こういうものである」と決めていないのです。
あえていえば「覚りとは、言葉ではいい表せない」ということのようです。よく「真理と一体化すること」とか、「本当の自分の心をありのままに知ること」といわれるのですが、ではその境地は、というと言語を越えているというのです。

挿絵:四国遍路たとえば、お四国のお寺を巡拝するお遍路では、案内書は役にたちます。しかし、お四国を遍路して得られた感動は、どんな言葉でもいい表すことはできないでしょう。もし、できる人がいるとしたら詩人くらいでしょう。
「四国は詩国」といったのは、「念ずれば花ひらく」で有名な伊予の詩人、坂村真民さんです。詩は理屈ではありません。覚りも理屈ではないらしいのです。それじゃ何のための『…なんだそうだ、般若心経』なのか、ですって?
これは、案内書…のつもりです。

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